『復活の日』ユージン・スミルノフ教授の講義②なり得たはずの姿になれなかった人類への慟哭と未練

人類の存続のために

ユージン・スミルノフ教授の講義は慟哭と未練に続く。「冥蒙」という言葉でまさに滅びんとする人類の姿を総括する。「人間的な、あまりにも人間的な部分」と「知性の到達し得えたはずの真の姿」を対比。到達し得たはずの真の姿についに届かなかったことへの慟哭。あと一千年あれば・・の未練が語られる。

冥蒙

ユージン・スミルノフ教授の言葉は続く。

“・・・しかしながら──この人間の冥蒙は、なんというすくいがたい冥蒙であったことでしょう!人類は、あまりにも人間的なことにかかずらいすぎました。・・・“

ここで語られる「人間的な」とは「地を這うものの裔」としての人間。「地を這うもの」の要素を色濃く引きずっている冥蒙の部分。教授は「人間的な、あまりにも人間的な」と語る。

「人間的な、あまりにも人間的な」

愛、恋、セックス、ヒューマニズム、ゴシップ、快楽、スペクタクル、日常、名誉、賞讃、嫉妬、虚栄、いさかい、面子、快楽、国家の反目、貪欲、搾取、憎悪、人種差別、人間相互間の優越感と排他主義、無智、不信、恐怖、自己満足、うぬぼれ、執着、反感、無条件の楽天主義。。。

これら全てを一旦は「嘉みさるべきもの」であり「いじらしい」との思いを残しつつも、それでも「くだらない」と断じる。人間という生き物に対する愛おしさと期待が揺れる。

なり得たはずの人間の知性

“神もなく、救いも憩いもないむき出しの物質宇宙の中にただ一人、まもるものもない赤裸の姿で誕生し、素手でもってそのあらあらしい、虚無そのものであるゴツゴツした物質世界にいどまねばならない超人“

ユージン・スミルノフ教授は、その知性が到達し得たはずの真の姿をこう描く。その知性は虚無で在る宇宙の中で毅然として屹立する超人であり得たはず。

1964年の小松左京氏に見えていた宇宙は「むき出しの物質宇宙」「虚無そのものである・・・物質世界」と描かれる。もしも現在の2025年に小松左京氏がいたら、今の最先端の物理学の描き出す宇宙を小松左京氏はどう観て、どう描くのだろうか?興味深いことの一つ。

対比

「あまりにも人間的な人間」と「その知性がなり得たはずの姿」の2つの人間の姿を対比させる。

“人間はただその弱さから、自己自身、つまり人間的なものにのみかかずらい、虚無と、物自体の深淵のほとりに立つ、自己の真の姿を──卑小にして高貴、すべてにして無、万能にして無力、物そのもののような残酷さと、精神そのもののような無限のやさしさにみちた自己のあらわな姿を、直視する勇気を、ついにもたなかったのであります。──“

  • 人間的なもの ⇄ 虚無と、物自体の深淵のほとりに立つ、自己の真の姿
  • 卑小  ⇄ 高貴
  • 無   ⇄ すべて
  • 無力  ⇄ 万能
  • 無限のやさしさに満ちた ⇄ 物そのもののような残酷さ

この「直視する勇気」がこの後の後悔への伏線。

そして慟哭

“みなさん……私はいま……泣いております……涙が流れるのをとめることができません。人間は──人類は……もっと別のものになりえたはずでした。この冥蒙もまた……徐々に……徐々にではありますが──まったく、なさけないぐらい遅々とした歩みではありましたが──わずかずつ、啓かれて行くきざしはあったのであります“

人類が届かなかった姿を思い、ユージン・スミルノフ教授の涙が流れる。血を吐くような2つのメッセージが刻まれる。

  • 人類は…..もっと別のものになりえたはず
  • なさけないくらい遅々とした歩みではあったが、わずかずつ、啓かれて行くきざしはあった。

未練「一千年の猶予」

  • このまま猶予が──誰によってあたえられた猶予かは知りません。おそらくは大宇宙のあやなす運命の目の一つが、偶然かもし出していた猶予が──このままあと、せめて一千年つづいてくれていたら……人類は、やがて人類全体として、一つの高みに達していたかも知れません。“

この慟哭と未練は「この世界を直視する勇気を持たなかった学者の一人としての後悔」へ続く。

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