「朝夕、何となく秋の気配を感じるよね」の妻の言葉に触発されて季語【桐一葉】がふと頭に浮かんだ。【桐一葉】という言葉に潜む【秋の兆し】。あるいは盛者が衰えていくことへの惜別。童謡の歌詞 にも【秋の兆し】を捉えている言葉が見られる。こんな【兆し】を捉える感性を磨くには俳句がお勧め
桐一葉落ちて
桐一葉落ちて天下の秋を知る
大阪冬の陣の前に、大阪城を後にする片桐且元が詠んだ句とされている。
夏から秋への季節の移ろいへの感傷に加えて、秀吉亡き後の豊臣家の没落を予感して、豊臣家の家紋であった「桐」を織り込んで詠んだともされている。
これは中国の『淮南子』の中の以下の言葉が元々の出典とのこと
一葉の落つるをみて、歳のまさに暮れなんとするを知り・・・
桐一葉日当たりながら
桐一葉からさらに高浜虚子の俳句を思い起こす。
桐一葉日当たりながら落ちにけり
流石に名句。ただ目の前の事実をそのままに記述しているだけ。「天下の秋を知る」などという説明も展開も述懐も一切ない。
桐の葉が一枚、初秋の陽の光に映えながら・・・ひらひらと散り落ちる。
ただそれだけ。
しかしそこに確かに【秋の兆し】を感じる。夏の終わりと秋の始まりの間の一瞬を切り取り、その一瞬に確かに存在した陽のきらめきを示しす。このきらめきはまた寂寥感も内包している。忍び寄る秋がそこに在る。
小さい秋見つけた
もう一つ頭に浮かんだのは童謡『小さい秋見つけた』のフレーズ。改めて歌詞を調べてみた。記憶の中に沈んでいた言葉が姿を現す。【小さな兆し】に『秋』を見つける。
- 目隠し鬼さんを呼ぶ声とモズの声 :聴覚
- ガラスの隙間から部屋に入る風 :触覚
- 一枚のハゼの葉の赤い色 :視覚
わずかな、しかし確かな【兆し】に我々は秋の気配を感じ取ってきた。今もこの【兆し】は私たちの心を揺り動かしている。
俳句と季語
日本には俳句がありそして季語がある。【桐一葉】も秋の初めの季語になっている。何万年もの間、繰り返し訪れる四季の生活の中で俳句が生まれ、折々の季節の中から季語が拾い上げられてきた。
それぞれの季節にその季節の【兆し】を示す季語がある。改めて歳時記を紐解くと魅力的な季語がそこに溢れている。例えば、今の季節『涼新た』の季語に心が躍る。
秋を迎える京都
これから京都は秋を迎える。コロナを乗り越えて今年は以前の様に多くの観光客を迎えることになるのだろう。
とは言え、人が来ても来なくても、、、この京都で季節は過ぎ去り、また新しい季節が訪れる。人混みの中ではあってもささやかな季節が移り変わる【兆し】を見つけたい。
俳句の習慣
以前は『夏井いつき先生』の暮らしの手帳の『俳句生活』で毎月『決められた兼題』に取り組んできた。しばらく中断していたが、自由に季語を選べるで、半年遠ざかっていた『俳句』を習慣にすることにした。

心に響く季語を選び、季節の中での気づきや感動を捉えて、その言葉を研ぎ澄ませて、磨き上げることで詩として残す。そんな取り組みを続けることで言葉のセンスと【兆し】に対する感性を磨いていく。
- 感性と詩心を磨くことで人生を豊かにし
- 言葉を磨きコミュニケーションを向上することで仕事の成果を上げる
そんなことのできる俳句に取り組むことをお勧めしたい。
また、歳時記は辞書の様でそうではない。今自分が生きているこの季節の歳時記を読み言葉を拾う。それだけで素敵な言葉=季語に出会う。心に響く季語に出会うことができる。
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