「自分」と認識しているはずの自分の身体は日々作り替えられている。半年も立つと以前の自分と全く異なる分子でできた今日の自分になっている。福岡伸一著『動的平衡」によると生命とは【たまたまそこに密度が高まっている緩い分子の淀み】にすぎないらしい。生命のパラダイムシフトを楽しむ
作り替えられ続ける身体
自分の体の細胞はダイナミックに日々作り替えられている。食べたものがアミノ酸に分解されて体中に運ばれて、今の細胞が破壊されて、このアミノ酸を原料に細胞は新しく作り直されている。
『自分は自分のままで何も変わっていない』という記憶の確かさの立場から、この身体は別のものに置き換っているという説明はなかなか簡単には腑に落ちない。
でも事実、皮膚は3日、骨でも200日でほぼ置き換えられてしまうらしい。まだ記憶に明らかな半年前の自分の身体は実はほとんど残っていない。
分子の淀み
福岡伸一『動的平衡』に以下の記述がある
生命は行く川のごとく流れの中にあり・・・この分子の流れが全体として秩序を維持するために、相互に関係を保っている・・・個体は・・・ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子の緩い「淀み」でしかないのである。
福岡伸一『動的平衡」 第8章より
私という個体も【流れ行く分子の流れの中にたまたま生じた「淀み」】にすぎないと説く。
行く川の流れは絶えずして
子供の頃に近くの川に遊びにいくと小さな渦巻きを見つけて見入っていたことを思い出す。少しずつ形と場所を変えながらもいつまでもなくならないその渦巻きを見続けていた。
確固としてここにあるように感じる自分の身体もあの日の渦巻きのような不確かなかりそめの存在なのだろうか?
鴨長明の『方丈記』は『行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず』で始まる。
この「水」を「アミノ酸の分子」として「川」を「生命」に置き換えると『方丈記』は福岡伸一氏の世界観と同じ構造で共鳴する。
動的平衡
さらに福岡氏はこの本の中で述べる。
分子は環境からやってきて、いっとき、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
・・・つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は・・・かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。
・・・私はこの概念を【動的平衡】と訳したい。
「生命とは動的平衡にあるシステムである」
福岡伸一『動的平衡』第8章より
生命が次々に中身を入れ替えながら一定の平衡を保つ【動的平衡】のシステムだとすると生命の他にはどんな【動的平衡】のシステムがあるのだろうか?
式年遷宮
20年ごとに新しい木を使って建て替えをしていく式年遷宮。神社という物体は次々に新しいものに入れ替えながら【神】という概念を保ち続けている。
この場合は「木材」が「アミノ酸の分子」。「神の宿る場」が「生命」となる?
これも【動的平衡】の一つ?
神社はこの式年遷宮のシステムにより、そのままでは風化し、劣化していく建物を定期的に作り替えることにより、時の流れにあらがい【神の宿る場】という価値を維持し続けている。
企業
企業はどうだろうか?特に老舗と言われる企業はとっくに創業者や初期の社員は去っている。それでも長く続いている老舗企業には、経営の理念やブランドが営々と受け継がれて、その事業が生み出すものはこの世界に価値を提供し続けている。
この場合は「人」が「アミノ酸の分子」。「事業」が「生命」に当たるのだろうか?
受け継いでいく価値
こう考えていくと【動的平衡】というシステムは「生命」「神の宿る場」「事業」という価値を維持し続けていく仕組みということになる
生命のもたらす価値とは
「神の宿る場」で人は心の安らぎという価値を得る。「事業」で人は製品やサービスという価値を得る
では生命はこの世界にどんな価値をもたらしているのだろうか?福岡伸一氏は『エントロピー増大』というこの宇宙の原理の中での「生命」の存在価値について『坂の上の円』というモデルを使ってさらに掘っていく。
このエントロピーと『坂の上の円』についても別の記事で整理する。
パラダイムシフト
この本は生命を【動的平衡】のシステムという視点から再構築することによって私たちに大きな【パラダイムシフト】を体験させてくれる。
自分が見ている世界が少しだけ視点を変えることで全く違った見方で見る事ができる。その結果、全く関係の無い様に見える独立した現象の奥底に共通の構造が見えてくることがある。
自分が最初に見ている視点が全てでもなく唯一でもないこと。もっと視点を深堀りすることで新しい学びがある事を常に心において、パラダイムシフトのチャンスをポジティブに狙いたい。
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