認定コーチを目指した試験を前に、自信をなくしていた私は、必死の思いで、コーチトレーナーにコーチングをしてもらった。どうしたら良い?の必死の問いかけに、返ってきたのは満面の笑み「いっそコーチングを手放して、豊かな時間を過ごしませんか」の提案だった。その10日間で私が受け取ったのは、合格だけではなかった。これは、コーチングを「受けた」ことで、生き方まで変わった体験の記録である。
迷いの中で、コーチングを受けた
4回目の認定コーチの試験を10日後に控えて、2回のロープレでうまくいかなかった私は、すっかり自信をなくしていた。何度も落ち込んでは立て直して、ここまでやってきてなぜだろう、いったい何が足りないのだろうと、焦りだけが胸の中で音を立てていた。
思い余って、私はコーチングのトレーナーの先生——日本でも有数のコーチである——に、そんな私のコーチングをお願いすることにした。教わるためではない。自分の内側を、いったん整理したかった。
コーチングの場で、藁にもすがる思いで、私はこう問いかけた。
「これからの10日間、いったい自分は、コーチングのどこに集中して勉強したらよいでしょうか?」
トレーナーの言葉で指し示してほしかったのだと思う。合格への最短の道を。
「いっそ、手放しませんか?」
先生は少し黙って、「うーーーん。そうですね」と、ニッコリ笑った。そして、こう言った。
『いっそ、これから試験までの10日間、いったんコーチングのことを、いっさい手放しませんか? そして、あなたにとって豊かな時間を過ごしませんか?』
一瞬、言葉の意味がのみ込めなかった。私は「どこを勉強すればいいか」を尋ねたのだ。それなのに返ってきたのは、「勉強をやめませんか」という提案だった。
「手放す」は、受け入れられなかった。けれど——
正直に言えば、私はその提案を、すぐには受け入れられなかった。試験を前にして、最後の追い込みの時間を手放す——合格から一番遠い選択に思えたからだ。
それでも私は、なんとか自分に言い聞かせた。信頼する先生が言ったのだ。まずはやってみよう、と。何よりも、莞爾として微笑んだ先生の笑顔に、何かを感じていた。
そうして私は、妻との時間をつくった。長らく集中できなかった、大好きな読書の時間を取り戻した。そしてその静かな時間は、そのまま、先生のあの提案の「意味」と向き合う時間にもなっていった。
自分の足りない部分だけを見つめていた
豊かな時間の中で、少しずつ見えてきたことがあった。
私は「合格する」ということに、必死になっていた。矢印は、ぜんぶ自分の足りない部分に向いていた。足りない、まだ足りない——そうやって私は、自分で自分をすり減らしていた。渇いて、枯れていく方向へ、全力で走っていたのだ。ゴールに手を伸ばせば伸ばすほど、私の器の中身は減っていた。
シャンパンタワー
そのとき、ひとつの景色が浮かんできた。シャンパンタワーである。
てっぺんのグラスが、まず満たされる。そこから溢れたものが次の段を満たし、さらに溢れたものが、その下を満たしていく。順番は、決して逆ではない。
コーチングも、これと同じなのだと思った。
まず、コーチ自身が満ち溢れている。その溢れた豊かさが、まわりの人を満たしていく。そのさらに先で、ようやくクライアントを満たすことが起きる。
自分が枯れていては、コーチングはできない。自分が満ちていて、初めて、本当のコーチングは機能する。当たり前のようでいて、必死な私がいちばん見失っていたのは、この一点だった。
コーチになるのではない。最初からコーチで居る。
この日々の中で思い出した言葉がある。盤珪和尚という江戸初期の禅僧の「不生禅」。親父の本棚にあった盤珪和尚の本の中の言葉だ。
親の生付(うみつけ)てくれたものは、不生の佛心ひとつでござる。余のものは一つも生付けては来ぬ。
其生付てくれた佛心で居れば、何の造作もいらずに、其ままで居られるものを、・・・
つまり——仏になろう、仏になろうと造作するよりも、いっそ最初から仏で居れば良い。この言葉を思い出して、弾かれたように気づいた。自分は試験に合格して認定コーチに「なろう」と造作していた。そうではない。
認定コーチになろうと造作するよりも、いっそ最初から認定コーチで居れば良い。
器が満ちて、初めて人は「在る」ことができる。枯れたまま「なろう」ともがいていた私には、そのどちらもが欠けていた。
実技試験に、認定コーチとして座っていた
10日後、私はその試験を受けた。試験会場で、初対面の人との1時間のコーチング実技試験。私とクライアントの二人の横には、先輩の認定コーチが評価シートを手に、一言も発せずに私のコーチングを観ている。
以前の、認定コーチに「なるため」にコーチ席に座っていた私は、コーチングをしながら、自分のコーチングの出来がどうしても気になっていた。試験官の存在も、意識のどこかにあった。それまでの私は、認定コーチに「なりたい人」ではあったが、認定コーチでは「なかった」からだ。だから、結果は未合格だった。
この日、コーチ席に座っていた私は、既に認定コーチだった。認定コーチとして、そこに居た。私は100%クライアントさんに集中していた。クライアントさんの課題の現場に一緒に居た。一緒に登るべき山を眺めた。一緒に登り口を探した。クライアントさんは、自分でその登り口を見つけて言った。静かな涙を流しながら・・・
3週間後、「合格」の連絡をいただいた。
先生は、私を信じて待っていた
不思議なものだと思う。しがみついていたときには掴めなかったものが、手放したときに、向こうからやってきた。
いま振り返って、はっきりと分かることがある。トレーナーの先生は、方法も答えも教えてはくれなかった。その代わりに、私が自分で気づくための「豊かな時間」を手渡してくれた。
そして、私がその豊かな時間の中で、私の答えを見つけることを、信じて待っていてくれた。
コーチングとは
これこそが、コーチングというものの正体だと思う。答えは、クライアントが持っている。誰かに与えられるのではない。的確な問いと、たった一つの提案によって、私は自分の内側から、自分でも見えていなかった答えにたどり着いた。人から言われて動いた答えは、すぐに剥がれ落ちる。けれど自分で掴んだ答えは、生き方の芯に残る。
あなたの器を満たす時間を、いっしょに。
私があの日、先生から手渡されたような「豊かな時間」を、今度はあなたに。
売り込みのない、オンライン30分の対話です。話すことは、決めてこなくてかまいません。
